物事を正しく考えるのは実はそんなに難しくない。

 実はカレンダーの絵

捨てるのが惜しくて切り取って額縁風のマスキングテープで周りを囲ってみた。

所々はみ出してるけど…。

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 モネの絵。

ヒマワリだから夏の絵なんだけど。

 

 

 本題へ入ります。

 まず

『正しく考えるには普通に考えること』だ。

変にひねったりしてはいけない。

 

 

 

ここで『普通とはなんぞや』という哲学的方向に話を展開はしない。

それをやっているとあらゆる可能性を

拾わなくてはならないので

物を考えるための基準を設定することができない。

 

とりあえず、ここでいう普通とは

辞書的な意味で言葉を解釈し

普通にものを考えることというほかない。

 

 何より大切なことは『希望的観測で結論を出さない』ことだ。

 

基本中の基本だが。

そんなのは当たり前だと思うかも

しれないが、これは必ずといってもいいほど

どんなに頭がいい人でもやってしまう。

 

 

 意見が自分の希望とつながる結論は誰もが望んでいるだろう。

しかしこれをやると、そもそも何のために

ものを考えているのかわからない。

 

希望的観測にひきずられてしまうと

結局は詭弁を弄するハメになる。 

 

わかりやすく例をあげてみる。

 

例えばいじめ問題がある。

いじめられる側にも問題があるという言葉を聞いたことがないだろうか。

 

これがよく使われる詭弁の1つである。

何となく聞いた時はそうかもしれないと思うかもしれない。

が、だからといっていじめが行われても

いいということに果たしてなるだろうか。

もちろん、ならない。

 

そもそも、誰だって嫌いな人が1人や2人はいるだろう。

 だからといって嫌がらせをしていいという

理由にはならない。

 

にもかかわらずこういう主張が

意外と世の中でまかり通ってしまう。

 

正しく問題を考えるのは意外と難しくないというのは

大胆な主張だと思うかもしれない。

 

しかし、実はこのように人文的な問題とか

社会的な問題というのは非常に簡単で

正しい回答を出すのはそんなに難しいことでは

ないのはよくあることなのだ。

 

 

非常にわかりやすい例えに人間はみんな平等だということがある。

 

ところが世の中がそうなっているかというと、

誰もが知る通り全然なってはいない。

 

人間はみな平等という、こんな短い文章で

小学生にでもわかるような内容なのに。

なぜそうなっていないのか?

 

それは結局わかりたくない人が大勢いるからだ。

こんな短い文章で、1 +1 = 2ぐらいの非常に簡単な内容であるにもかかわらず。

 

このように常識的に考えればすぐに正しく結論を

出せるようなことでも意外と世の中はそうなっていない。

 

それは結局のところ真剣に考えていないからである。

真剣に考えさえすれば普通に正しい結論を出す事は

そんなに難しいことではない。

 

 

 

自分の都合の良い方向へ結論を出したいという

願望に引きずられなければ

大体の事は正しく結論を出すことができる。

 

 

そもそも希望的観測による

自分が望んだ通りのことを、ただそのまま言うのならば 

ものを考える必要なんかないんだし。